人間学を学ぶ月刊誌『致知』の5月号に、駒澤大陸上競技部大八木弘明監督のインタビュー記事が掲載されていました。正月の風物詩として知られ、いまや国民的行事になっている箱根駅伝。東京・箱根間を往復し、全217.1㎞を十人でたすきをつないで走りぬく。第97回を迎えた今大会、奇跡的な大逆転を起こし、13年ぶり七度目の優勝を飾ったのが駒澤大陸上競技部。
大八木弘明監督は、駒澤大陸上競技部を26年間にわたって指導している。監督は福島県生まれ、中学時代最初は野球をやっていたが、横山正美先生という素晴らしい指導者に運良く巡り合い、本格的な練習方法を学んだおかげで中学三年次に、3千メートル全国5位になる。高校は県立会津工業高校へ進学するも、中学時代の速さを取り戻すことが出来なくて、散々な高校時代を過ごす。
実績もない大八木弘明氏は、ここでも指導者に恵まれて実業団の『小森印刷(現小森コーポレーション)』へ入社。実業団に入った時には脚の怪我も治り、1年目からチームのエースとして活躍する。しかし次のステージを考えて、仕事と競技を両立して続けられる二部のある大学を探し、二十四歳で駒澤大夜間部に進学した。駒澤大学は曹洞宗の学校で、開祖・道元禅師の言葉に『我逢人(がほうじん・我人に逢うなり)』があります。
ここの四年間で学んだのは、時間管理の大切さです。たとえ短時間であっても、目的意識を持ち、集中した練習を持続すれば結果は出るのです。実業団に入って間もない頃からゆくゆくは指導者になり、これまで自分が培ってきたモノを次の世代を担う選手に伝え、強くしてあげたいと思うようになった大八木弘明氏。
大学を卒業したのは二十八歳の時で、現役選手としての寿命は長くなかったため、引退後に指導者として受け入れてくれることになっていたヤクルトへ、四年ほど競技を続けた後にコーチを務め、そうこうしてた頃、駒澤大から招聘された。それは1995年、三十六歳の時でした。1994(平成6)年当時の駒大は箱根駅伝の予選会で通過校最下位となり、辛うじて翌年の本大会に出場するような弱小チーム、二十九年連続出場が途切れるかもしれないという状態でした。
まず朝練を六時から全員でやる。監督が先頭を引っ張って走り、朝食は七時半から八時まで皆で摂るという朝のサイクルを作った。「食事は、私の女房に頼みました」。元駒澤大陸上部マネージャーをしていたモノで、「一緒に立て直しをする」と、二十人分の賄いをしてもらいました。朝食の後は授業にきちんと出席させ、午後の練習は十五時半から。門限を二十二時に定め、寮の前に立って取り締まり、生活態度の改善から取り組んだ。
そして五年目の2000(平成12)年に、箱根駅伝初の総合優勝を手にし、2002年から2005年まで四連覇を成し遂げた。こののち2008年にも箱根で総合優勝しました。ところが連覇のかかった翌年に何と13位、シード落ちを経験。四十代半ばで四連覇を達成し、四十代最後の年を優勝で締めくくることが出来たので、五十歳を過ぎた頃から「もう俺はここまでやって来たんだから、この程度の指導をしていたら大丈夫だろう」という感じで、知らず知らずのうちに安定志向に入ってしまったような気がすると監督自身が語る。
だからやっぱり、安定指向はダメですね。常に挑戦して変化していかないといけない。つくづくそう感じました。このようにインタビューで語っていました。ところがこの後の新聞報道に、日本全国が驚くことになります。神奈川県警は(5月)十九日に、十七歳の女子高生にみだらな行為をしたとして、県青少年保護育成条例違反などの疑いで、駒沢大四年の石川拓慎容疑者(21)を逮捕した。
石川容疑者と言えば、1月の箱根駅伝10区で戦後最大となる3分19分差をひっくり返して、駒大を13年ぶり7度目の総合優勝に導いたのは記憶に新しい。奇跡の逆転優勝の立役者となったが、大会直前になんと女子高生をラブホテルに連れ込んでいたというから、日本中が騒然となった。〝常勝軍団復活〟が期待される名門の未来にも暗雲が垂れ込めてきた。
今年の箱根駅伝出走メンバーのうち、石川容疑者を含めて9人が3年生以下(当時)で構成。私もこれから暫くは、駒大の黄金期が続くと思いました。レース後には、大八木監督が「それこそ3大駅伝(出雲、全日本、箱根)は取りに行きたい感じはする」と自信をのぞかせており〝令和の常勝軍団〟へ順調なステップを踏んでいた。
しかし、今回の事件で状況は一変。駒沢大の広報担当者は「報道で今回の件を知った。事実確認中です」と話したが、最悪の場合は大八木監督の処遇に関わる可能性もあることから、ある陸上関係者は「大八木監督がクビになったら、駒沢が終わってしまう」と表情を曇らせた。私のような箱根ファンにとっても、大八木弘明監督の「男だろ」、あの甲高い声が箱根から消えたら淋しい。大学生指導は難しいと、改めて実感する。