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明治大学ラグビー部22年ぶりの大学日本一までの記録集3冊
初版発行日がよく似た3冊の本。いずれも、明治大学ラグビー部の再建物語であります。
①『明治大学ラクビー部、復活への軌跡』
  勝者の文化を築け!監督・田中澄憲の「改革戦記」
  永田洋光 (スポーツライター)著 2019年12月11日 初版発行
  洋泉社 \1400E

②『紫紺の凱歌』
  明大ラグビー・再建と新時代へ
  明治大学ラグビー部著     2019年11月22日 初版
  ㈱カンゼン \1800E

③『紫紺の誇り』
  明大ラグビー部に受け継がれる北島イズム
  安藤貴樹(スポーツライター・医療ジャーナリスト)著2019年11月 
15日 第1版第1刷発行 ㈱ベースボール・マガジン \1700E



1996~97年のシーズンを最後に、2018年まで勝てなかった明大ラグビー部の苦悩と、北島忠治監督の教えに対するそれぞれの指導者の考え方を綴ったどれも力作であります。明治大学のラグビーの部是は「前へ」と言われますが、「前へ」は作戦面だけの前進ではないというのが結論のようでした。少なくても私は、そのように読み込みました。

明治大学ラグビー部は、何と言ってもいまだに、1996年5月(25年前)に亡くなられた北島忠治監督の影響力が強い。それもそのはず、米ニューヨーク証券取引所での、株価大暴落に端を発した世界的な大不況『世界恐慌』が勃発した1929(昭和4)年に、明大ラグビー部監督に就任し、戦前戦後の難局でも監督・寮長を務め、1996(平成8)年の死ぬまで実に67年間の長きに渡り明治大学ラグビー部の監督として多くの日本代表選手を指導して来た北島忠治。

2019年開催のラグビーフットボールのワールドカップ日本大会で、日本チームが大活躍したこともあり、ラグビー人気が一気に勃興した。確かに日本全国を見ると、中学校での部活動はほとんど皆無、高校に至って香川でも2チームで、かろうじて練習試合が県内で出来る程度のチーム数。まだまだ、日本のラグビー人口の裾野は狭い。それでもラグビー熱は、確実に広がっているように見える。

日本においてラグビーが始まったのは、大日本帝国憲法が公布されたあと、10年目の1899(明治32)年にタイガー慶応大学ラグビー部が創部されたことに始まる。遅れること19年後、1918(大正7)年臙脂(えんし)早稲田大学ラグビー部の創部、そこからさらに5年後の1923(大正12)年紫紺明治大学ラグビーが誕生している。この間の、他の大学ラグビー部の創部については記載がないので、ここでは分からない。

2018年度、この年からヘッドコーチを経て新監督になった田中澄憲率いる明治大学ラグビー部は、全国大学選手権大会決勝で、天理大学を22-17でくだし、優勝。1966年度以来、22年ぶりとなる大学日本一の座に輝いた。決勝の舞台から姿を消した99年以降、足かけ20年の歳月は明治にとって、苦難と表現しても差し支えない時間だった。

そのきっかけとなった出来事の一つが、1996年5月、67年間にわたって明治の監督を務めた北島忠治の逝去だ。1929年の監督就任と共にチームの礎を築き、「前へ」という明快な指導方針でチームに揺るぎない一本の筋を通し続けた『御大』の死は、明治大学ラグビー部にとって、とてつもなく大きな喪失となった。

御大の死後低迷を続ける明治大学ラグビー部に、「復活の道筋を付けた」のが2013(平成25)年に、人気者の吉田義人監督の後任として、北海道から単身赴任で八幡山寮生活を5年続けた丹羽政彦監督だ。新築したばかりの札幌の自宅を出て家族と別生活、ラグビー部の八幡山寮で、学生と寝食を共にし始めて明治大学ラグビー部は変わった。丹羽政彦監督は、清水建設からの出向者。当然、社内での出世はなくなった。

吉田義人監督の後任選びでラグビー部OB倶楽部は、トップリーガとしてラグビー界の先端を走って来たわけではないが、「チーム作りのコンセプトや考え方にしっかりとした強い言葉を持っていた。特に重要だったのは、私生活から変えていかなければダメだということ。学生として当たり前のことをきちんとやって、模範や規範となる選手を育てていかないといけない」という丹羽政彦にすべてを託した。

まず取り組んだ一つに、食事の改善がある。2013年このシーズン、4年連続となる大学日本一に輝いた帝京は、大学ラグビー界の先駆けとして計画的な肉体改造に着手。バランスの取れた食事と、継続的な筋力トレーニングによって作り出された屈強なフィジカルを武器に、その連覇をのちに9にまで伸ばした。

丹羽政彦監督は、栄養バランスや摂取カロリー、一日の食事の回数にいたるまで徹底してマネジメントできる管理栄養士の重要性を感じていた。そこで丹羽は、日本代表やサントリーで同職を歴任してきた山田優香を、着任と同時にチームに呼び寄せた。また学生の本分である講義の受講のため、練習時間を早朝6時30分からとした。質を求めだした。

これを読んで、今月中から私も室内のウォーキングを昼食後から、この時間帯へ移した。室内でのウォーキングは、この梅雨の季節でも何の支障もなく続けられる。毎日8,500歩、機械での歩きは35分間、時速5.5kmだから3kmは歩く。雨風の言い訳は、室内では通じない。昼食後のウォーキングは、もう数年続いているが体重は高止まり。こちらは目標からほど遠い。

話を戻すが、丹羽政彦監督は自らの次ぎも考えていて、2017年田中澄憲次期監督候補をヘッドコーチに迎え、チームの総力体制を作り上げた。そこで2018年田中澄憲監督誕生、22年ぶりの学生日本一となる。田中澄憲監督は朝4時に起床して、八幡山グランドまで車を飛ばして5時には駆けつけた。早朝の練習は、学生のみならず、指導者関係者も辛い思いをした。

田中澄憲監督は、「僕にとっての北島忠治元監督の唱える『前へ』は、プレースタイルではなく、ラグビーに取り組む姿勢であり、生き方を支える理念なんです。そうした姿勢でラグビーと向き合って勝つことが、何よりも明治の伝統を伝えることだと思います」。明治大学ラグビー部の代名詞であり、部是である『前へ』のアップデート、それが、監督・田中澄憲の挑戦だった!!

確かに私の在学した頃の昭和50年前後の明治は、スクラムにこだわって、早稲田から認定トライをもぎ取っていた。1975(昭和50)年、明治は対抗戦に勝ち、学生日本一に輝き、日本選手権でも優勝を飾った。しかしこの頃から先、やがて帝京・関東学院などまた関西では天理や同志社や京都産業など、群雄割拠の時代が続きフィジカルトレーニングやGPSを駆使した作戦を、世界を意識したらとらざるを得なくなった。

北島忠治の言う前へは、勝つためなら何をしても良いという考え方を排し、逃げないで自己責任を果たし14人のメンバーや23人のベンチ選手に決して背を見せない前へと言う意味だと、私は考えます。新型コロナウィルスで自宅待機が多くなったあなた、読んでみたら面白いですよ。今日の小欄は長くなってしまいました。明日からはこれまでの尺で書きます。ゴメンなさい。



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| 社長日記 | 09:17 AM | comments (0) | trackback (0) |
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