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なかとかせい!島岡御大の置き手紙by丸山清光
明治大学校友会からの定期メールで、標題の本が、2020年9月30日初版第1刷が上梓されたと知った。とりあえず買わなければという衝動から、通販で取り寄せた。そのまま会社の書庫に仕舞っていたのだが、最近取り出して読んでみた。なかなか面白い。今月27日にもう1冊取り寄せて、高松商の長尾健司監督に届けた。教育委員会からの通達か、野球部は勿論、どの部活動もやっていなかった。

島岡御大(おんたい)とは、東京六大学野球連盟関係者以外でも、明治大学野球部元監督島岡吉郎氏のことだと多くが知っている、名物監督のことです。1925(大正14・両親誕生)年に、東京帝国大学(現東京大学)が春のテスト参加を経て秋に正式に加わり、現在の東京六大学野球の形になってから、昨年で95年になる。島岡吉郎氏は、37年間監督として貢献していた。

東京六大学野球95年の歴史のなかで、神宮球場のフィールドで野球という球技を経験していない唯一の監督が島岡吉郎だ。応援団長あがりの名監督という一面が強調されすぎている。明治大学にはもう一人、北島忠治という相撲部出身(途中でラグビー部へ)のラグビー部監督がいた。共に畑違いと言われたが、誰もが認める名監督だ。明大は、ある意味常識外れの部分がある。

御大は『猪突猛進』、北島は『前へ』が信条で、共に早慶を倒すことに執念を燃やしていたこともよく似ている。北島は、御大の監督就任の23年前から監督に就任している。大学卒業と同時就任だったと言うから、凄い監督歴だ。死去するまでの67年間の監督経歴を、37年間の御大が敬服していたわけだ。北島忠治監督も、同じように『御大』と呼ばれていた。

高校や大学の部活動は教育であり、監督といえども教育者としての側面を外しては語れない。島岡吉郎氏は教育者だ。明治大学野球部寮『明和寮』に単身住み込んで、酒を飲みながら人生を諭した。丸山清光氏は私の1年後輩にあたり、4年間島岡吉郎監督と寝食を共にし、エース・キャプテンを務め御大の一部始終を見てきた。

この頃の明大は強かった。私も優勝パレードに、一升瓶片手で参加したことがあります。そうそうラグビーも、強かったですね。全体を通して、島岡吉郎監督とのことが多く書き込まれているが、著者が朝日新聞社に就職したことから、新聞業界の今昔も含まれている。野球好きには実に面白い一冊であります。

今もそうだと思うのですが明治大学野球部は、『打倒早慶』であります。このあたりの下りは紙幅を多く割いていて面白いのですが、法政の江川卓投手の攻略法も大変参考になります。打倒江川!江川の高めの球を捨てろ。そうそう「島岡式勝利の方程式=(技術×練習)×元気+その日の調子」これの紹介は外せませんね。

最後に、私も大賛成な記述を紹介して終わりにします。バットの経費負担が主な理由で金属バットに変更になったが、野球規則の本則(バットは1本の木材で作られるべき3・02)に沿って木製バットに戻せないモノか。木製に戻れば、地方予選は元より、甲子園の戦術が変わり試合が緻密になる。観ている方も外野スタンドへの痛烈なホームランは減るが、その分、二塁打、三塁打が増え、楽しめる。

ピッチャーは内角攻めが増え、インコースへ食い込む球で、詰まらせるケースが増える。46年前に戻るだけだ。ピッチャーも金属バット対策で多投するフォークボールをはじめ、肘、指に負担のかかるボール数を減らせ、故障も減る。球数制限の前に、別の効果がすぐ生まれる。球数を多く投げるより、金属バット対策への変化球の多投の方が体に与える負担が大きい。何より、低めの変化球でボール球を振らせる野球から、ストライクゾーンで勝負する野球に戻り、観ている方も野球観が46年前に戻る。



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| 社長日記 | 08:58 AM | comments (0) | trackback (0) |
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