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2月7日は「北方領土の日」だがロシア人は決して領土を譲らない
昨日の小欄にも書きましたが、ロシア人は領土で決して譲歩しません。ロシアは親日だと国際関係アナリスト北野幸伯氏も言うのですが、それでも領土となると1㎡も譲らない。日本では今日、『北方領土返還請求全国大会』が東京都内で行われて、返還の機運を高めているのですが、ロシアは決して返還しないと私は考えます。

1年のうちでいつを「北方領土の日」にするかについては、さまざまな意見が出されましたが、最終的には2月7日に決定されました。この日は、安政元年(1855)に伊豆下田で「日魯通行条約」が調印された日で、歴史的な意義があると同時に、平和的に領土の返還を求めるという運動の趣旨にも合致するということで選ばれたものです。政府では、昭和56年(1981)1月の閣議において、正式に2月7日を「北方領土の日」 とすることを決定しました。

1941年、日本はアメリカ、中国、イギリスなどを相手に戦争を始めました。そして日本は1945年8月15日「ポツダム宣言」を受け入れて、無条件降伏しました。その8月15日から3日後の8月18日になって、当時ソ連と結んでいた有効な条約「日ソ中立条約」をソ連が一方的に破り、クリル(千島)諸島北端の占守島に上陸を始め、自衛のため応戦した日本軍と激戦が交わされました。

しかし、日本軍は北部方面司令官の命令で、23日に局地停戦協定を結び降伏しました。その後ソ連軍は千島列島沿いに南下を始め日本軍の武装解除をして、得撫島まできましたが、択捉島には上陸せず、いったん北に引き返しました。しかし、アメリカ軍が択捉島や国後島等に進駐していないことを知ったソ連軍は、再び南下を始めました。
 
この一件は、当初ソ連軍も北方四島は日本の領土であるとの認識だったことを物語っています。択捉島や国後島に上陸したソ連軍は、「アメリカ軍は来ているか?」と、住んでいた日本人に対して念を押しながらの上陸だったということでした。ソ連軍は8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島に上陸し、9月3日には歯舞群島にまで及び、ことごとく占領しました。
 
このため島で生活していた人々の中には、危険を冒して着の身着のままで脱出した人もいます。住み慣れた土地を離れられず島にとどまった人々も、1947年にはソ連軍によって強制的に日本へ送還されました。
このように日本固有の領土である北方四島は、日本が無条件降伏した3日後から、ソ連によって不法に占拠されたままになっています。

話は遡りますが江戸幕府は、寛政11年(1799)に北方領土を直接統治することにしました。このために江戸幕府は、近藤重蔵をその任務にあたらせました。そして近藤は、海の豪商といわれた商人の高田屋嘉兵衛を伴って北方領土にむかいました。近藤はその前年の寛政10年(1878)に、最上徳内を案内役にして、国後島から択捉島にかけて調査を行っていました。その際に、タンネモイという場所に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てて帰りました。
 
その後寛政12年(1800)、高田屋嘉兵衛が苦労して航路を開拓し、再び択捉島へ渡りました。そして、カムイワッカオイの丘に近藤が建てたのと同じように「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てて、ここの土地が日本の領土であることを改めて明らかにしました。近藤重蔵らによる北方領土調査を経て、幕府は択捉島などに役人を常駐させました。そして享和元年(1801)には、南部・津軽両藩の兵隊100人前後を守備にあたらせました。
 
その一方で北方領土への開拓は積極的に行われていましたが、中でも大変だったのは国後島や他の島々へと航路を開いていくことでした。この問題を解決したのが、近藤重蔵に雇われて調査・探検に同行した高田屋嘉兵衛という人物です。高田屋嘉兵衛は、蝦夷地の開発に貢献した海運業者で、もともと四国・淡路島の出身です。嘉兵衛は、北方領土で潮流や魚場の調査、島内開墾を行って幕府と密接な関わりを持つようになります。
 
そして、不屈の精神を持って北方四島の航路開発にあたり、見事に仕事をこなしていきました。この間に幕府は、色丹島に船の避難港を設けたり、野付半島~国後島間の航路開発や、国後島内の道路開発事業を進めました。北方領土での人びとの往来や、物資の流通が盛んになってきたのもこの頃です。

何とワクワクする話であります。別海町役場(北海道野付郡別海町)の、ホームページから抜粋しています。また高田屋嘉兵衛に関しては、司馬遼太郎氏の『菜の花の沖』に詳しく記載されています。北の例えば北海道昆布などは、北前船で琉球沖縄まで運ばれていたのです。私がこの本の中で特に感心したのは、北海道から北陸まで船で物資を運んで、一方で九州沖縄からその地の特産物を乗せて北陸まで来た船と船ごと交換したのです。

どの歴史書を見ても、北方領土は日本固有の領土だと思います。竹島も、同じ。しかしながら、ロシアにしても韓国にしても領土は決して譲りません。尖閣諸島も同じで、日本が手を緩めて中国につけいる隙を与えたら、たちまち中国が実行支配するでしょう。どんなことがあっても、日本国政府は、自衛隊を出してでも死守する覚悟で臨んで下さい。


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| 社長日記 | 09:06 AM | comments (0) | trackback (0) |
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