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菅義偉首相と稲盛和夫塾長は通信料金値下げ積極論者
コンピュータトラブルのため、日記のアップが夕方になってしまいました。申し訳ありません。今日のネタは、電話料金に関してであります。菅氏が官房長官だった2018年から始まった官製値下げでも、低料金化が進まなかった大容量プランの再値下げを、菅義偉首相が声高に号令し、武田良太総務省は「ちょっとやそっとの値下げは値下げと言わない」というような発言で、キャリア各社を恫喝(流石に言いすぎか)している。マスコミ報道が事実としたら、当期純利益が20%もあるのは確かに儲けすぎだろう。

随分昔のことになるが第二次臨時行政調査会は、1981(昭和56)年に発足し、鈴木善幸内閣(昭和55年7月17日-57年11月27日)が掲げた「増税なき財政再建」を達成すべく、行財政改革についての審議を行った。会長を務めた土光敏夫氏の名前から、「土光臨調」とも呼ばれる。これによって『三公社民営化』などの提言は、中曽根康弘政権(57年11月27日-62年11月6日)の一連の行政改革に結実していった。また、総合管理庁構想は、後の総務庁の設置、橋本龍太郎政権(平成8年1月11日-10年7月30日)における省庁再編につながっていると考えられる。

この『三公社民営化(国鉄分割民営化・日本電信電話公社・日本専売公社)』を聞いた稲盛和夫塾長は、日本の電話料金が世界各国に比べてべらぼうに高いと考えて、民営化に伴い、どこかが手を挙げて電気通信事業を立ち上げてくれないかと期待をする。最終的には1985年(昭和60年)に、公衆電気通信法は電気通信事業法に改正され収斂された。

これにより、同公社の民営化と、電気通信事業への新規参入、および電話機や回線利用制度の自由化(端末の自由化・通信自由化)が認められた。同公社の民営化までは、国内の通信(電報、専用線など)、通話(電話)業務を明治初期から100年間単独で行ってきた。だから通信料金が高止まりなのだと、稲盛和夫塾長は考えるようになった。

盛和塾内では有名な話だが、『動機善なりや、私心なかりしか 』と毎夜自らに問いかけ、誰も挑戦しないのなら、自らがやってみようと考えるようになっていく。前後して稲盛和夫塾長は、1984(昭和59)年4月私財200億円を投じて、財団法人『稲盛財団』を設立している。この年12月25日、電電公社改革三法案が成立しているのだ。

このあたりから本日の本題、日本経済新聞『私の履歴書小野寺正(KDDI相談役)』の手記に入る。1983年11月の『鹿ヶ谷』の会合では、稲盛和夫の構想は固まっていたが、それをすっぱ抜いたのが翌84年3月10日の日経朝刊。トップページに、「京セラなど”第2電電”設立に動く」と大見出しで報じたのだ。

記事の波紋は大きかった。これが号砲となり、後出しジャンケン的に続々と新規参入者が名乗りを上げた。第1号が建設省と日本道路公団の連合で、後にトヨタ自動車が加わり、『日本高速通信』となった。高速道路網を利用し、光ファイバー網で全国を結ぶ構想だ。それに続いたのが国鉄だ。光ファイバーを張り巡らせる管路(鉄道網)を持つだけでなく、全国の『みどりの窓口』を結ぶ発券システムのデーター通信などを運営する2,000人以上の通信技術者を擁していた。『日本テレコム』であった。

小野寺正氏は、稲盛和夫の篤い思いに感銘し、84年5月に公社に退職願を提出したが、紆余曲折を経て、結局10月末の退職が認められた。第二電電が高速網や鉄道網などのインフラを持たないため、新たにマイクロ無線網を敷設するしか方法はないのだがその際は、公社の既存の無線網と干渉しないことを証明する必要があり、そのための計算アルゴリズムは公社しか持っていなかったからだ。そのために円満退社でなければ、第二電電へ行く意味がないのだった。

小野寺正氏が電電公社を何とか円満退社し、第二電電(DDI、当時の正式名称は第二電電企画)に入社したのが1984(昭和59)年11月1日、36歳の時だった。使命はインフラの整備。具体的には、東名阪を結ぶマイクロ無線網を一刻も早く完成させること。このマイクロ無線網こそDDIの屋台骨であり、逆に整備が遅れると、売上0の日々が続くことになる。

小野寺正氏は公社からの情報開示やDDIの事情を踏まえ、早急にルート計画をつくった。その際、古巣の公社無線部門には世話になった。その甲斐あって、11月下旬にはルートをほぼ確定した。東名阪の山中8カ所に鉄塔を建て、その間をマイクロ無線で結ぶのだ。公社の当時の工程では、東名阪を結ぶマイクロ無線網の整備に8年以上かけるのが通例だったが、そんな余裕はない。

例えば岐阜県揖斐郡の国見岳では、工事の人には山岳部よろしく徒歩で現場まで登ってもらい、必要な物資や機材は上空でホバリングするヘリコプターから吊し降ろすという手法を採った。苦労した甲斐あって、東名阪の無線ルートは着工から2年半足らずの86年の夏に完成。世間を驚かせたのだった。

これに伴い、1987年(昭和62年)に正式に、『第二電電』、『日本テレコム』、『日本高速通信』の3社が長距離電話サービスに参入した。電話事業の独占的環境にあった量的拡大の時代は、競争環境下における質的高度化の時代というステージに移行した。こうして『DDI』は国際電信電話『KDD』と合併し『KDDI』となり、販売では『au』として今に至っている。

開業当時の東京-大阪間の通話代金は、日本電信電話(NTT)が3分400円だったが、第二電電は、同300円の料金を実現。国民に安い電話通話料金を提供するという稲盛和夫の大義は、見事に成就した。その後、『日本テレコム』、『日本高速通信』は敢えなく撤退している。盛和塾で稲盛和夫塾長から聞く話とクロスして、新鮮な気持ちで小野寺正氏『私の履歴書』を読んだ。13日『電電退社』14日の、『無線網構築』なかなか面白かった。


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| 社長日記 | 04:15 PM | comments (0) | trackback (0) |
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