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安倍晋三首相の良いところを見たい⑤
安倍晋三氏が職業として政治に関わることになるのは、1982(昭和57)年11月27日中曽根康弘内閣が発足し、父親安倍晋太郎が外務大臣に任命され時から。28歳で、神戸製鋼を退社して外務大臣安倍晋太郎の秘書官となった。中曽根康弘元首相は、自らの在任中、四期三年八ヶ月にわたり、安倍晋太郎を外務大臣に起用した。外遊回数は39回、安倍晋三秘書官はその内20回ほど同行している。

『創造的外交』-それが父・外務大臣安倍晋太郎外務大臣のテーマであった。この時の経験が奏功して、安倍晋三内閣総理大臣の外交手法は、先の小欄で書いた通りである。秘書になるまで、親子の会話は数えるほどしかなかった。安倍晋三氏が秘書になることによって初めて、政治家と秘書、そして親子としての濃厚な時間を持つことになったのである。

1980年9月9日に勃発したイラン・イラク戦争は、泥沼の様相を呈していた。中曽根康弘首相は85年、イラン国会の議長とイラクの外相を、おのおの日本に招き、停戦を呼びかけた。戦争中の二つの国の要人を官邸に呼び、戦争の中止を呼びかけるというのは、外交上極めて異例のことであった。

この時日本は、両国にODA (政府開発援助) 資金を供与していた。両国に強いパイプを持っていたのは、西側陣営では、日本だけと言ってよかった。また石油資源の約70%を中東地域に依存している日本としては、イイ戦争の終結は国益にかなうことだった。じつは、これより遡る二年前の83年、外務大臣安倍晋太郎は依然として戦争の続くイランとイラクをほぼ同時に訪問した。中曽根康弘首相の会談は、この時の外務大臣安倍晋太郎の訪問が土台になっている。

当時アメリカはイラクを支援していて、イラン革命によって成立した政権とは敵対していた。当然アメリカは、外務大臣安倍晋太郎のイラン訪問を心良く思うはずがない。だがアメリカは、イラン訪問を了承した。ロンヤス(レーガン大統領と中曽根康弘首相)と同じように、外務大臣安倍晋太郎とシュルツ国務長官との間に深い信頼関係を築いていたからだろう。

これを書き終わって、ビッグニュースが流れてきた。米国とイラン(正式にはイラン・イスラム共和国)の対話仲介を試みた安倍政権が緊張緩和に向け、数千億円相当のイラン産原油と米国産穀物を、日本を舞台に物々交換する案を極秘に提示していたことが7日、イラン政府筋の話で分かった。トランプ米政権も、日本に大筋了承の意向を伝えている。両国の主要産品取引で、対話を促す奇策。安倍中東外交の内幕が、明らかになった。昨年6月の中東仲介訪問が空振りかと思われていたが、やったねアベちゃん。

安倍晋三首相が代議士になったのは、1993(平成5)年38歳の時である。父・安倍晋太郎の逝去を受けて、後継として立候補し、初当選した。だが残念なことに、このとき政治改革を巡って自民党は分裂。衆議院選挙で自民党は、過半数を割り込んでしまった。迎えた首班指名選挙では、「非自民」をスローガンに、七党一会派が擁立した日本新党・細川護煕氏に敗れてしまった。

1955(昭和30)年、サンフランシスコ講和条約(1952年)の発効後、抗争を繰り返してきた吉田茂率いる『民主自由党』と、鳩山一郎を党首に仰ぐ『日本民主党』の二つの保守政党が合併をはたして以来、38年間政権を担ってきた自民党は、ついにその座を降りることになったのである。しかし具体的な政策や歴史の異なる政党が集まってつくった連立政権は、10ヶ月と短命であった。

国民福祉税構想をめぐって連立内の対立が深刻化し、細川護煕首相(在位263日)が辞任、ついで新生党・羽田務政権(在位64日)が成立するモノの、連立与党と社会党との政権協議が決裂、内閣は総辞職するに至った。自民党の政権への復帰は、意外と早かった。だがそれは、安全保障政策では基本的に考えの違う社会党と連立を組むという、オーソドックスではない政権奪取の方法であった。

自社さ(自民党・社会党・新党さきがけ)連立内閣の首班指名で、安倍晋三議員は社会党の村山富市氏に一票入れた。野党の自民党が、早期に政権復帰するには、それしか道がなかったのだ。村山富市政権では、1995(平成7)年1月17日『阪神淡路大震災』や3月20日、オウム真理教による『地下鉄サリン事件』など大事件が発生した時代の561日間の政権でありました。

村山富市総理は1995年8月15日には、『戦後50周年談話』を発表しています。私個人としては、村山富市氏は明治大学の先輩であり、偉大な先輩だと大変高く評価していますが、政治家としては母体が弱すぎた。世論の支持が五、六パーセントしかない政党の党首を総理大臣に擁立したことは、さすがに自民党内の不満を増幅させた。とりわけ自民党結党の思想に賛同して代議士になった、どちらかというと保守本流に属す人たちからの反発は大きかった。

下野していた1年間、安倍晋三代議士が学んだことは多かった。新生自民党のスタート(1996平成8年1月橋本龍太郎内閣)は、安倍晋三代議士にとっても、精神のリセットを意味した。その第一が、自民党はもはや政権の地位にあること自体を目的にした政党ではない、という認識を新たにすることだった。

安倍晋三代議士が政治家を志したのは、自分がこうありたいと願う国をつくるためにこの道を選んだのだ。政治家は実現したいと思う政策と実行力がすべてであります。こうして戦後日本の枠組みは、憲法はもちろん、教育方針の根幹である教育基本法まで、占領時代に作られたモノだ。連合国の最初の意図は、日本が二度と列強として台頭することがないよう、その手足を縛ることにあった。

自民党結党の精神の一つに「自主憲法の制定」が謳われているが、その目的を達成する為の発議には、議員総数の三分の二以上の賛成が必要だったことも合併の理由である。まさに憲法の改正こそが、「独立の回復」の象徴であり、具体的な手立てだったのである。ここまでは安倍晋三官房長官の著書『美しい国へ』から拾った。最後が実に印象的だ。政治は、未来のためにある。

美しい国へby安倍晋三 文春新書 2006年7月20日参照

今、安倍晋三首相の後継者争いが、菅義偉官房長官・石破茂元幹事長・岸田文雄党政調会長の三者の間で盛んに行われている。彼らのことは多く報道されているが、安倍晋三首相はすでに過去の人のようになっている。私は敢えて安倍晋三首相のいいとこ取りだけをしてみた。「桜を見る会」など、私も我慢できない出来事もあったが、敢えて「人間安倍晋三」の一面をピックアップしてみた。同時に大変勉強になった。この先も、安倍晋三代議士の活躍する舞台があるように思うのです。シリーズはこれでおしまいです。



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| 社長日記 | 09:07 AM | comments (0) | trackback (0) |
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