一昨日の小欄の続きで再登場される『ミノル・F・ウエキ・パラオ共和国特命全権大使』、2009(平成21)年10月3日、もう10年も前のことになりますが、東京港区ホテルグランドパレス赤坂で行われた『大使のお話を聞く会』の記事が、その当時の公益財団法人オイスカの広報誌『OISCA』に紹介されています。池田浩二事務局員が、送ってきました。職員だから『オイスカ愛』は当然ですが、それでも彼の『オイスカ愛』は濃い。
ミノル・F・ウエキ・パラオ共和国特命全権大使は、1931(昭和6)年パラオ・コロール州生まれ。御年89歳になります。1953年より58年までベラウ国立病院に医師として勤務された後、58年パラオ米国信託統治領厚生局長に就任。その後、ミクロネシア議会議員、パラオ国会上院議員などを経て、2009年より駐日パラオ共和国特命全権大使となる。
パラオ共和国は、日本の真南に位置する。首都はマルキヨク(2006年、コロールより遷都)。言語はパラオ語と英語。通貨は米ドルだが、現地通貨もあるとのこと。1年間を通じ亜熱帯気候で暑いが、四方を海に囲まれており、風も爽やかで過ごしやすい。7月から12月は雨季、1月から6月は乾季となる。
パラオの文化には、今でもスペイン統治(パラオは1895(明治28)年スペインにより発見されて、1899年までスペインに支配されていた)以前の固有文化が変わることなく生き続けている。この独特の文化を守るため、現在も、年配者が若い人にパラオの伝統品の作り方や伝統的な建物、そして、様々な歴史、物語などを伝えている。
パラオは1899年に、スペインからドイツに売却された。その5年後の1914年(第1次世界大戦が始まる年)には、国際連盟の決定によりパラオは日本の委任統治になりました。日本の統治が30年間続き、この間にパラオに移住した日本人は、5万人以上に上ります。日本人たちは、パイナップルなどを生産し、缶詰工場もつくりました。
太平洋戦争後、パラオはアメリカの信託統治領となりましたが、1981(昭和56)年に憲法を施行し、自治政府を発足させ、1994(平成6)年10月1日に独立しました。パラオには、約300もの島があります。総面積は488平方㎞、屋久島とほぼ同じ広さです。ここに約2.1万人の人々が暮らしており、その約4倍もの8万人の人々が観光に訪れます。
農業は余り盛んでなく、一部で行われている程度で、農産物の90%が輸入に頼っています。これを、改善していかなければなりません。ここに、オイスカの力が必要です。オイスカがパラオにやってきたのは、1980(昭和55)年です。同年10月、オイスカ・パラオ支局が開設されています。そして翌81年に九州の方々が中心となり、オイスカ・パラオ研修センターを造って下さいました。
そしてオイスカによる技術指導は、1998(平成10)年まで続きました。現在、研修センターには日本人の技術者はおりませんが、パラオの人たちによって順調に運営されています。目指すのは、村の人々の収入を生み出すこと、輸入を減らして自給自足することです。私は着実に組織づくりを進めており、オイスカから短期でも技術指導員に来てもらいたいと考えています。
パラオ人は、オイスカの精神が大好きです。パラオの将来にとって、オイスカの技術指導は絶対に必要です。現在台湾による指導協力がありますが、化学肥料を使っています。私が目指すのは、有機農業です。パラオの発展のためにも、オイスカの技術を導入していただきたい。80年当時、黒木先生が指導してくださった炭焼きがありましたが、今は輸入に頼っています。
現在オイスカインターナショナルの一覧に、パラオ研修センターはありません。20年前は、日本国からの資金援助がオイスカにありました。今は、自分たちで集めた『寄付金・会費』での海外支援です。『パブアニューギニア』には、『ラバウルエコテック研修センター』があります。明日の小欄は、22日の日経新聞に掲載されていた「茂木敏充外相パプアへ財政支援表明」関連記事を紹介します。私はラバウルエコテック研修センター設立30周年記念式典で、現地を見てきました。