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2003/11/8

信州小布施の報告第2弾

 セーラが縁あって、桝一市村酒造場へ来たのが、93年です。長野の民間企業に勤めながら98年の長野冬季五輪のボランティアスタッフとして働くことを目的としての再来日です。最初は91年に大阪で日本語の勉強をしています。詳細は「セーラが町にやってきた」の中に詳しくかかれています。
 日本で一番か二番目に保守色の強い長野にあって、アメリカから来た一人の女性が、これほどまでに日本人が期待している通りの空間を作れるものかと、にわかには信じられません。昨年斉藤聖美さんからセーラのことを聞きました。今年もセーラの話を聞きました。それでもこれほどまでの「観光地空間」を作り上げたとは思わなかった。
 たとえぱ何が日本人好みなのか。まず木が多いのです。下の地図でもこんもりした空間がありますね。これが木です。もちろん自然にあったものばかりではありません。意図的に移転したり、山からのものもあります。木があるそばには、緑があります。笹から始まって、芝生まで緑で埋め尽くされています。次に小径が多い。「栗の小径」というネーミングも心ときめく響きがあります。そしてやはり建物でしょうね。建物も家ひきをして移動させて、空間を創造しています。看板もこだわっています。暖簾がさらに雰囲気を醸し出しています。
 そして成功の要因としてもっとも大きいのは、正々の旗と堂々の陣構えです。正々の旗は、古い造り酒屋と、葛飾北斎の遺品の数々。小布施は自ら「画狂人」と号した絵師・葛飾北斎(1760〜1849)がその晩年に長く逗留し、画業の集大成をはかった特別な場所です。北斎は90歳近くまで生きています。晩年ですから80歳前頃からこの小布施に逗留したのです。桝一市村酒造場の遠い先祖、高井鴻山(当時は市村健と名乗りました)が江戸遊学の祭に親交のあったあった北斎を小布施に招いたのがきっかけで、鴻山は北斎を先生と呼び、北斎は鴻山を旦那様と呼んでいたようです。これらの業績の数々が残っている。堂々の陣は、町のみんなが協力していることです。これにセーラはイベントを次々に企画し、行政をも巻き込んで、大きな渦を作っています。ボランティアが集まっています。これが成功する街作りの集大成でしょう。
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小布施堂界隈図
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